「はじまりへの旅」のあずっち的解釈
こんにちは。
あずっちです。
今日は久しぶりに良い映画に出会いました!
それは、「はじまりへの旅」です!
あずっちは、観ながらいろいろと考えさせられる映画が好きなのですが、この映画はまさにあずっちにうってつけの映画でした。
今日はこの映画について、勝手に解釈していきたいと思います!
あらすじ
ベン・キャッシュとその妻レスリーは、6人の子どもたちとワシントン州の森の奥深くに住んでいる。資本主義とアメリカ人の生き方に幻滅したベンとレスリーは、子どもたちにサバイバルの技術と哲学を教え込む。社会から離れ、ベンとレスリーは子どもたちを育てることに身を捧げる。批判的思考ができるよう教育し、肉体的に健康で活発であるように訓練をさせる。そして、森での生活を通じ、テクノロジーに頼らず自然と共生することの素晴らしさを身をもって体験させる。
しかしながら、レスリーは双極性障害によって入院し、最終的には自らの命を絶ってしまう。ベンは妹のハーパーからこの事実を知らされる。葬儀の手配についての話し合いがもたれるが、義父のジャックとベンは言い争いを始めてしまう。レスリーの遺志に従いベンは火葬を執り行いたいが、ジャックは土葬にしたいと言う。結局土葬が行われることになり、ベンは葬儀への参列をしないことにし、子どもたちにそう伝えた。しかし、ベンは葬儀を台無しにしてやろうと決意し、子どもたちを連れ車での旅に出る。
そして、子どもたちは初めて森の外の生活を体験する。
あずっちの解釈「自分らしく生きることのジレンマ」
※ネタばれ注意!
この映画は、森の中で生活するベンの一家が母親の死を境に都会との交流を持ち始めるという内容であります。
森の中でしか育ってこなかった子供たち。都会の中の人たちからすると「変な」「変わった」人と見られます。
ホットドックもコーラも知らない子供たち。
都会の中では「普通」のことでも、森の中で過ごした子にとっては「珍しい」ことになる。そのまた逆もしかり。
そうして外の世界と触れ合うことで子どもたちの中にも心境の変化が生まれます。
中でも次男のレリアンは森の中で過ごすことに疑問を感じ、父に反発し始め、しまいには、森の中にはもう帰らないと言い出します。
最終的に父ベンは、子供たちをおじいちゃんおばあちゃんの元に預け、自分は行く当てもなく車を走らせる・・・
という感じで映画は終わりに近づいていきます。
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いや~この映画は、スキマが多い。スキマっていうのは、言葉ではなく描写で語る時間という意味で使っています。
このスキマこそ、映画にとって大事な要素ではないかと思っているので、この映画はスキマが多いという点でとてもよかった。
映画のHP上でも、「普通って何ですか?」と書いてある通り、「普通とは何か」についてよく考えさせられますな。
人は普通であることに安心感を覚える。人と同じであることで、仲間意識を持つ。特に「ムラ社会」の日本ではそうなのではないでしょうかね。
この映画でも、子供たちは学校に通わずに森の中で父の教育方針の元様々なことを学び、長男に至っては一流大学に合格するほどの頭脳を持つまでに至っています。
しかし、都会で暮らす人たちは、学校に通っていないことを「変」と見る。「普通」学校に通わせるだろうと・・・。
学校に通っている都会の子より、自然の中で育ったベン一家の方が物事をよく理解しているし、よく考えている。
でも、よく物事を考え、知っているよりも、一日中ゲームをやってお菓子を食べて遊んでいる子の方に安心感を覚える。
人は誰でも唯一の存在であるし、唯一の存在になることを望んでいる。
しかし、一度人と違う存在になると、周りからは蔑まされ、忌み嫌われるし、不信感を抱かれる。
昔、解剖学者の養老孟子がこんなことを言っていたように思う(正確ではないが・・・)
「自分らしく生きるのは良いことだというけれど、でも、発達障害の人たちが電車とかで騒いでいたらどうだろう?彼らは自分らしく生きているけど、みんな嫌がるでしょう」
自分らしく、人と違う生き方をしても、そこには一定の周りとの協調が求められる。
人として大事なことを求める過程でも、他人との同質を求められる・・・。
うーん、うまく言葉に表すことはできないけれど、
自分らしく生きるって言葉に表すことは簡単だけど、自分らしく生きたところで、社会はそれを良しとしないでしょうよっていうジレンマがあるなぁと。
そんなことを感じながらこの映画を観ました。
普通とは何なんでしょうなぁ。
社会とは何なんでしょうなぁ。